銀河系のかなたの現場から逃亡した数名のレプリカントが地球に潜入する。そして、ブレード・ランナーのデカード(ハリソン・フォード)は彼らを処分するためにロサンゼルスの街をパトロールする。
『ブレード・ランナー』 1982年米:リドリー・スコット監督 ハリソン・フォード主演 |
映画の中で、脱走したレプリカントのリーダー格のロイが自分の「製造年月日」を知ろうとして、科学者や技術者に近づく場面がある。製造年月日が分かるということは、彼らが死ぬ日が分かるということになるのだ。そして、「寿命」を延ばすように、彼らを製造したタイレル社の社長に迫る。ところが、社長に「寿命の延長は無理だ」と言われて、ロイは「怒り」のあまりタイレル社長を殺してしまう。
このロイの「怒り」は、キュブラー・ロスの「死の受容」における「怒り」と同じだろうか?キュブラー・ロスは、がんの宣告を受けたときに人が示す反応として、「否認・怒り・取り引き・抑うつ・受容」という段階があると言っている。この「怒り」は、「なぜ自分が死ななければならないのかという怒りを周囲に向ける段階」であるとされている。
レプリカントは、自分たちが4年で死んでしまうことを知っている。そして、ロイは寿命を延ばせないと知らされたときに怒りを爆発させている。もし仮に、彼らの寿命が人間並みに、80年前後に延ばせていたとしたら、ロイの怒りは収まっていたのだろうか?”奴隷”としての生活がさらに延長されるだけだとしても、やはり彼は寿命の延長を望んだのだろうか?
……問題は、「寿命=命の永さ」ではないような気がしてきた。
人間は、自分の死期を明確にされたときに怒りを覚えるのではないだろうか?いつかは死ぬ存在である、ということをわれわれは常日ごろは忘れていることが多い。それを「余命一年です」とか「あと数ヶ月の命です」と言われると、「他人に自分の寿命を決められてたまるもんか」と、頭に来るのではないだろうか?
だとすると、ロイの「怒り」も、レプリカントがもう一歩人間に近づいた証しだったのかもしれない。
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