2014年6月5日木曜日

死のメンタルヘルス

 緩和医療に興味をもつと、「死」に関する本に目が行くようになってくる。

 中澤正夫『死のメンタルヘルス 最後に向けての対話』(岩波書店)も、先日新聞の広告で見かけて購入してしまったものである。中澤氏は、精神科医で今年で77歳になる。中澤氏は、54歳のときに『「死」の育て方』を著している。そのときの結論は、「死はいよいよそれが来たときに考えればよい」「「良き死」とは、己の死に参加すること」というものだったそうだ。
 その後の二十数年の間に、氏の死生観は大きく変わった。いろいろな出来事があったが、一番インパクトが大きかったのは、ご自身が心筋梗塞で死の一歩手前まで行ったことと、2011年の東日本大震災とそれにともなう福島第一原発事故であったという。

 今でも氏は無神論者で、「あの世」や「向こう側」の世界は信じていないそうだが、『死のメンタルヘルス』の第4章「「上手に家で死にたい」—「終活」をまっとうした看護師」の中で、「死のプロセスは「生命体の死」では終わらない」と述べている。「一人の死は、その人が住んでいた世界、接していた人にいろいろな変化を与えていく。その変化を含めて論じなければ「死を語った」ことにはならない」のだ、と。


 この考え方には共感できる。一人称の死については、生きている本人の意識がなくなるので、「それ以降の世界」があろうがなかろうが、生きている間には知るすべがない。しかし、残された二人称あるいは三人称の人々にとっては、かつていた「その人」が、この世から消滅してしまったということから始まる新しい世界は、もはや「その人」がいたときの古い世界のあり方とは異なっているはずだ。
 中澤氏は、これを「変化が来る、その人抜きの再構成がはじまる」と表現している。

 してみると、死んだらどうなるのだろうとか、自分は天国に行けるのだろうか、などと悩んでいるよりも、周りの人たちにどのように記憶しておいてもらえるかに心を配らなければならなくなるのではなかろうか。これは、自分の「死」を一人称でとらえるのではなく、三人称でとらえるような感覚だろうか?
 こういう三人称的な「死」のとらえ方は、果たして死の恐怖からのがれる手立てとなるだろうか?

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